小網代の森カヌークラブ (パドリングウルフ) で毎週末誰かしらと一緒にシーカヤックを漕いでいます

2019年9月14日土曜日

20190914-16 輪島ツアー

父親の弟、つまり叔父さんが隣の家に住んでいて、子供の時分にとても良くしてもらった。叔父さんはそのうち引っ越してその家ももうないのだけど、隣に居た頃には、子供の僕を逗子や三浦の浜に海水浴に連れて行ってくれた。叔父さんは海で遊ぶのが好きだった。

叔父さんの奥さんは輪島近くの生まれの人で、里帰りがあれば叔父さんはついていった。暑い時期であれば叔父さんは喜んで輪島の澄んだ海を泳いだ。黒い砂の舞い上がる三浦の波打ち際と比べて、輪島の海の透き通ったことを思い出しては、僕に話してくれた。

その記憶がずっと残っていて、輪島の海を機会があれば漕いでみたいと思っていた。それがクラブのツアーで輪島に行くというので、何とか縁をつないで参加できることになった。

初日:

真夜中に集合場所に集まり、大先輩の車に七人が乗り込む。土曜になった瞬間がツアーの始まり。一旦高速道路に乗ったら、富山あたりまでは高速でズバッと走り通す。今回はメンバーに恵まれて、大先輩も運転を代わりながら休めた様子。いつもありがとうございます。

日が明けた頃、とうとう日本海が見える。海が見えると車内も活気づく。能登半島の根元を通って半島の西側の海岸を北上。その途中で大先輩が高速を降りた。あれ、と思ったら、海岸間際まで来て砂浜に車が降りていく。大先輩は千里浜ドライブウェイに寄り道したかったようだ。明るい色の砂浜は硬く締まり、うねりはありながらも滑らか。その上をカヤックを積んだ車がポンポン跳ねながら進んでいく。屋根の上のカヤックを見て振り向く人も多い。でもまだここでは漕がないのです。

もう一度山の中に入って海に降りたら輪島。ついたー。車をおりて、ちょっと遅い時間の朝市を歩く。道行く売り子の人たちからは関西めいた言葉が聞こえてきて、自分の言葉の味気なさを思う。

朝市の中で遅い朝ごはんを食べに入ったら、「つるも」という透明な海藻が入った味噌汁がうまかった。フカヒレスープに勝ったね。近所のスーパーで買い出しをすませて袖ヶ浦のキャンプ場に到着。いや、長かった。

鉄道の路線図などを見ても、能登の上半分は全然電車が来ていない。輪島にも昔は駅があったが廃線となって、バス停に「輪島駅前」の名前が残るだけ。山奥はともかく、海に面していれば近くに鉄道が通っているかと思っていた。伊豆半島の西側もそうだけど、半島の先は陸の孤島になりやすいのだな。海から漕いでこれるとは思っても、近くまで車で行けないと時間がかかる。なかなか手強いぞ、輪島。叔父さんの頃には電車がまだあったのだろうか。親戚が車で迎えに来てくれてたのかな。

キャンプ場で自分たちの居場所をおさえたら今日から二泊、この場所にお世話になる。舟を6艇、波打ち際に下ろして並べ、身支度を終えると正午を過ぎた。いよいよ輪島の海を漕ぐ。


初日はそんなに漕がない。輪島港から河原田川に入って街中を少し遡るとすぐに浅くなりそこで引き換えした。途中、市役所の前で舟を上げ昼休み。ちょうどスーパーの看板が見えたので、地物の魚介類を大先輩が買い出しに行く。最初のスーパーでは見つからなくて心残りだったのだろう。それは立派なサザエを6つとバイ貝をひとつ、それからホウボウの刺し身とアラを買って嬉しそうに帰ってきた。サザエの数が足りないのでスーパーの人に交渉したそうだけど、向こうも無い袖は振れなかったろう。大先輩と二人のしょんぼりとした話しぶりがが目に浮かぶ。


買い物がおわりまた舟上に戻ると、川から海に出てキャンプ地まで帰った。カヤックをママチャリ代わりに使うのは楽しいし、好きだ。

地の物も手に入り、さっぱりと着替えて、大先輩のダッチオーブンを囲んで話し込みながら夕ご飯をゆっくり過ごす。明るかった空を岬の向こうに沈む夕日が二色に変え、その境目をみんなで探した。みんなが違うところを指差し、それでいいんだと納得した。濃く赤い空明かりの最後の一筋に照らされて、もう暗い海を他のキャンプ客の誰かがまだ泳いでいた。それぞれの時間で海を過ごす風景のその一部である僕ら。隠岐のときとは違って、一緒にその風景を作っているように思えたのは不思議だ。

明日は朝から起きて一日カヤックを漕ぐ。自然と話にも区切りがついて誰となく荷物を畳だし、テントに戻ってぐっすりと寝た。


二日目:

今日はどこまで行こう。昨日は浜を出て東にいたので、今日は西に行きます、それがカヤッカーです、と大先輩が言うので、片道で門前まで漕ぎ通すことにした。27km くらいか。

昨晩に浜に流れていた漁協の風予報どおり軽い向かい風、うねりは無く、つるんとした水は清く澄んで、相当な深さでも見通せる。これが叔父さんの言っていた輪島の海か。宝石はきっと水になりたかったんだと思う。光を溜め込み、投げ返す透明な質量。少しのゆらぎで色は変わり、その遊びはとどまらない。振り返ってみると、漕いでいる間は近くの水面ばっかりを見て、その揺れる色をずっと見ていた気がする。


ときおり海女さんの近くを通った。海女さんはあちらこちらにいた。たまにこちらに手を振ってくれる海女さんもいた。大きな赤い軍手のような手袋をヒラヒラさせながら、浮き輪につかまっていた。水面に戻ってきた海女さんは独特な音をさせて息をしている。どこか海棲動物の鳴き声のようで、もの哀しい。

ちょうど真ん中くらいの行程でお昼にした。小石の浜で、両脇の山を削った沢が真ん中に流れ込んでいる。キャンプ地として最高の場所として記憶した。少し長めの休憩をとり、全員がしっかり体を休めたら門前に向けて出発。


9月とはいえまだまだ日中は暑い。大先輩はスプレーを外し緊急冷却しながら漕いでいる。ウェットスーツを着てきた後輩はさすがにぼーっとしてきて、沈して体を冷やす。それがいいと思います。

そうして暑い昼下がりに門前の広い砂浜に到着し舟を上げた。みんなで完漕のハイタッチをしてねぎらう。本当だったら一泊1.5日で門前-輪島のつもりが、海況が良かったから一日で漕いでしまった。それがこのクラブらしい。大先輩の口癖は「もうちょっと先まで行ってみましょうか」。空荷のカヤックとはいえ、まだクラブに入ったばっかりの後輩二人は良く漕いだと思う。ただまっすぐ漕ぐのではなく、しょっちゅう岩の間を曲がったり、止まったり動いたりロックガーデンを楽しみながらだから距離でみるより疲れたはずだ。だからハイタッチの主役はその後輩たちだった。


大先輩が車を取りに行っている間浜で過ごしていると、地元の軽トラがやってきて道路脇に上げたカヤックのそばで止めた。邪魔かなと思って声をかけると、平気だという意味で運転席のおじさんが両手を上げて大きく丸を作ってくれた。すると車を降りてきて空の土嚢を砂の上に放り出し、ちりとりで一つ一つ砂を詰めだした。

畑にイノシシ避けのシートを上からかけて、それを押さえるのに使うのだという。以前は居なかったのに、どこから泳いできたのかだいぶ増えて、畑の厄介者なんだそうだ。そう話ながらおじさんは砂を入れて手際よく袋を縛っていく。できあがった土嚢は僕が軽トラまで運ばせてもらった。大先輩の車が戻る前に作業が終わって欲しいという打算もあるけど、話のお礼の気持ちもある。120%の後輩も加わって、二人で交互に砂袋を運ぶ。地元のおじさんは砂を詰めながら、門前の昔話をした。「500人いれば400人は船乗りになって街を出ていく。3人子供がいればその家は栄えると言われた。自分も外洋航路の船乗りで、辞める年になったから戻って農業を暇つぶしにやってるんだ。」

十もの袋ができあがると、おじさんは軽トラを出して帰っていった。僕らも小さいながらも船乗りといえるのか。そういう気概はもって海に出たい。船乗りの街、門前で海の先輩から偶然話を聞けて良かった。

そのうち大先輩が車で戻ってきて、舟と人を積み込んでキャンプ地に戻った。この舟はもう帰るまで積みっぱなしで、明日は漕がない。これで輪島の漕ぎは終わった。あの海の上にふたたび訪うその時まで、あの透き通った時間はおあずけ。

キャンプ地に帰ると日が沈むぎりぎり。途中スーパーに寄って買った地の小鯛を蒸してつまみながら昨日よりも遅くまで飲んで寝た。


最終日:

帰りの朝は早い。荷物を片付けて車に乗り込み、出発したのが6時ほど。行きとは違うルートでアルプスのど真ん中、白骨温泉に立ち寄りさっぱりしたら、近くのそば屋でツヤツヤに透き通った綺麗な蕎麦を食べて、松本から中央高速で帰った。そば屋では大先輩は何故かカレーを頼み、「結構辛いよ」と美味しそうに食べてた。帰りの車中では、みんなの面白い音楽セレクションにあわせて120%後輩の思い出が掛け流しに溢れ、とめどなく笑って帰った。

おじさんが好きだった海を漕げて良かった。輪島の名前を聞けば、いつもその思い出とリンクしてたけど、今回カヤックの流れでその海までこれて、聞いただけじゃなく、僕も見たと言えるようになってとても嬉しい。


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